魔女ねーさんのプロフィール

魔女ねーさんと申します。

今までの人生、親との離別、いじめ、ネグレクト、ブラック企業、DV、母親が3人いる…など普通の人生ではなかった、自分の人生なのに身内に苦しめられて、生まれてこなければよかったと思う事ばかり。

そんな私でも、他人の力で生きることにして、今は細々と自営業を営んでいます。

 

もし、何か悩んだり、自分の人生に疑問を持っているのなら、少しの時間私の話を読んでみてください。

 

今まで誰にも言えなくて苦しんでいましたが、ブログという手段が私と同じように人生のどん底に行ってしまい、もう死にたい!と悩み苦しむ人の為になるのなら、嬉しいと思います。

「生きている意味を知るために自分の人生を生きましょう!」

 

コンテンツ

父親の死から始まる私の人生

私の生い立ち・・・そんな事知りたくないでしょうけれど、魔女ねーさんのブログではそれが重要なポイントとなるので、自己紹介という形で皆さんに知ってもらいましょう。

 

父と母の出会い

父と母の出会いは分かりませんが、父はその当時ではそこそこのお金持ちの家に生まれて、お洒落な人でモテていたようで、

母は細身で着物も似合い、流行のショートパンツに上げ底のサンダル、当時の仕事はたしか床屋さんに勤めていたとか?

 

母の実家も旧家で、家長制度が残るような厳しい躾の家でした。

畳のふちを踏んではいけない。 一番偉い人がお風呂に入らないと後の物は入れない。

 

特に女性は一番後。そんな家だったらしいです。

先日分かった事実。

 

繁華街でスナックをしていたと・・・おじさんから聞かされました。(おじさんというのは 母が再婚した人)

多分父と母はそこで出会ったのかもしれない。

 

出逢いはあやふやですが、私が生まれたのです。

 

最初から父はいなかった

私が生まれたのは冬…、ちらちら雪が降っていたとか…。

何処の病院で産まれたかはわかりませんが、これも最近知った事実。

 

私の父の弟が母を病院へ連れて行ったという事。

その後病院に行くと母と私の行方が分からなくなって、随分探したらしいです。

 

私は無事に生まれたのですが、そのわずか5か月後父は亡くなったのです。

亡くなったというのは、実は殺されたと、ちょっとだけ聞いたことがあります。

 

モテ男だったパパ(ここからは父の事をパパと呼びます)は女性に殺されたとか。

それを無理心中と 新聞にも載ったようですが、ママは違うと抗議したようです。

 

真実は?

未だ怖くて調べていません。

 

ここから?

いえ、もうすでに私が生まれる前から私の不幸な人生の始まりでした。

 

パパが亡くなりママひとりどのようにしていたかは不明ですが、記憶の中に小さなアパートで暮らしていたような・・おぼろげですが覚えています。

 

しかし、やはり私を育てられないと思ったのか…ママのおじいちゃん(私にはひいおじいちゃん)が引き取りたいという事で、ママのもとから連れて行ったのです。

 

今日からママと呼んではいけない苦しみ

養女として生きる日々

ひいおじいちゃんはとても優しい人で人望が厚く、だれからも尊敬されていました。

でも、年齢的に私を養女にすることは困難で、その息子夫婦の養女にと、2歳になる前に迎え入れました。

 

養女に入った家はママのお兄さんの家だったのです。

実際にはおじさんという事になるのですが、ここも複雑で、腹違いの兄妹だったようです。

 

そんな複雑な状況で養女に入りましたが とにかくひいおじいちゃんっこの私。

大好きでした。

 

でも新しい父と母には子供が2人。

大分大きくなってから知ったのですが、長女は養母の連れ子、養父母の子供は二女だったのです。

 

2人とも女だったので私が男の子なら喜んで養子に迎え入れたのでしょうけれど、経済的な理由もあり、あまり歓迎されていなかったのです。

 

いつママは迎えにくるの?

ママのいないところでの生活でもおねえちゃんがいる、可愛がってくれるというのはありましたが、やはり寂しくてママのお迎えを待っていたのです。

 

時々寂しくて養母のお布団に潜り込むと、養父が「邪魔だ」と怒りました。

養子になったなど知りませんから「いつ来るの?ママはいつお迎えに来るの?」

そう言って困らせていました。

 

そして時々ママが会いに来てくれると離れなかったことを覚えています。

お土産を沢山持ってくるのです。

 

嬉しくて、嬉しくて、思い切りはしゃいでいた記憶があります。

そうですよね、会いたかったママが来てくれたのです。

 

しかし、4歳か5歳くらいの頃、ママは再婚しました。

いつかはお迎えに来てくれる…その夢は絶たれました。

 

その時に「今日からママと呼んではいけない」。

お姉ちゃんに言われました。養母にも言われました。

 

そしてママにも…。

今でもその時の事を思い出すと涙が止まりません。

「いやだ!!ママだもん!

ママ・・ママ・・ママ・・ママ・・ママ ママ  ママ  ママ」

永遠と夜まで泣き続けていたのを…。

手に負えなくて押入れに押し込められました。

 

もうママに会えない?そんな不安もありました。

それからしばらくママは来ませんでした。

 

養女としての生活でも不適切な教養(ネグレクト)が始まる

ひいおじいちゃんがとにかく私を可愛がってくれた。

 

おんぶして、寝かせてくれて。

私が泣けばあやしてくれる。

優しいひいおじいちゃんです。

 

しかし、2人の娘は可愛がる父(義父)は白でも黒と一度口にしたら絶対曲げない、頑固な人でした。

母(義母)は父の顔色を窺い口答えせず、我慢強い人でした。

 

長女は私と10歳くらい違うので大分お姉さんでした。

二女は3歳違い最初は私を本当の妹のように可愛がってくれました。

 

このまま普通の家族になれるのかと、ママに会えなくても父と母姉二人、ひいおじいちゃんと幸せに生活できるのかそう思いますよね。

 

ところが、そんな甘い生活ではありませんでした。

ある時家族旅行に行くことになり、私は夜も眠れず明日の旅行を楽しみにしていました。

 

姉二人と一緒に行ける。

見知らぬところ、本当に楽しみだったのです。

 

しかし、朝出かける準備をしている家族。

私もよそ行きの可愛い洋服を引き出して、まだ3歳かその位だったかと思います。

一緒に行こうと思ったら、

 

「おまえは留守番だ」

父からそう告げられ、私ひとり 連れて行ってもらえない事を知り

「行きたいよ、行きたいよ。」

何度もそう言って追いかけて行った記憶があります。

 

それを引き留めて泣きじゃくる私を背負ったのがひいおじいちゃんでした。

泣き疲れて眠るまで、皆が帰って来るまでひいおじいちゃんが私をなだめてくれていたのです。

今、思い出してもあの時のショックで 涙が止まりません。

 

この後もいつもお留守番、ひいおじいちゃんが面倒を見てくれました。

いつのころからか諦めていました。

 

そしていい子にしてればいつか連れて行ってもらえるんだろうと、

夢の家族旅行に憧れていました。

 

そしていい子にしていればママが会いに来てくれると思っていたのです。

 

最初で最後の家族旅行

そんな中、小学校入ったくらいでしょうか?

なんと町内会の日帰り旅行に連れて行ってくれることになったのです。

でもこれは最初からその予定ではなく、二女が熱を出して寝込んだために、父と私で行くことになったのです。

 

それでも嬉しくて嬉しくて大人の中に子供ひとりでバスの中で大はしゃぎ。

見たことのない景色を見て、変な思い付きの歌を歌って、大人は大笑い。

楽しくて、楽しくて、楽しかった思い出でした。

 

子供のころの家族旅行、これ以外は思い出せません

というかこの後はありませんでした。

可愛がり方の差別は長女が就職して、さらにひどくなりました。

 

唯一の味方がいなくなり、次第にネグレクトが悪化

そして、小学校5年生の時に悲劇が起きたのです。

私の唯一の味方のひいおじいちゃんが亡くなったのです。

 

昔、骨折した際に骨をつなぐために金属の何かを入れたとか?

そこへ下肢静脈瘤がすすみ、足のあちこちがどんどん壊死して

痛くて痛くて次第に歩けなくなり、いつも居間の堀こたつのところに横になっていました。

 

学校から帰るといつも居間でテレビを見ていました。

2年か3年位そんな日々だったか?

次第に体力もなくなり寝たきりに。

 

そしてとうとう自宅の布団の上で、私が学校で授業中に往診のお医者様と母と近所のおばちゃんに看取られ静かに息を引き取ったのです。

 

不思議ですがこの時私は学校のはずが、この光景を見ていたのです。

授業中、後ろの男の子に「今、うちのひいおじいちゃんが亡くなった」

といきなり話したので変な顔されました。

 

私はどうしたらいいのか、この先私はどうなるのか。

そして予想通り家長制度の家の一番上になった父は さらに私と実の子との差別を強めていきました。

 

初めて自分を表に出すも叩き潰される

初めて自分の気持ちを表に出すも、伝わることはなかった

高校卒業と共に叔母さんの養子になるはずが、養父が了承しなかったようで、私は養父母の家から通える会社に就職。

でもそこはいわゆるブラック企業。

 

昔の帳簿を見て単純な計算作業を繰り返す毎日。

毎日、嫁・姑のバトルが勃発し、どちら側に付くのか?で頭を悩ませました。

 

希望に満ちて就職したのがあっという間にその希望は崩れてなくなるほどで、私はそこを辞めて飲食店でウェイトレスのアルバイトをすることに。

 

私が何かするとママが養父に文句言われるので、何もできなかった…。

そんな自分の自由にならない人生がとても嫌になってきていたのです。

 

仕事で帰りが遅く、養父母とも同じ家にいても顔を会わせることがあまりなかった。

 

ある日、「私の帰りが遅い!」とか、「仕事がどうとか…」養父が怒り出し、私のたまっていた感情も爆発。

「間違っていたことが分かったら普通の親は謝るでしょ!養女に出す出すって一体いつ出すのよ!」

 

叔母さんのところへ養子に出さなかったことや、今までの理不尽な行動に抗議したら、

大雨の中外に出て行ったと思ったら 私の新車のフロントガラスが見事に割られていました。

 

家を出ようと荷物を持って出たけれど、車がそれでは家でもできず…

友達に迎えに来てもらい新しい車を買いに行き、納車までの間友達の家に泊まっていました。

そして、新車の納車と共に 荷物をまとめて家を出ていきました。

 

人生初の家出

どこに行くか?そんなことは考えていませんでした。

とにかく荷物を持って(最低限ですが)

友達の家へ行ったり、彼氏の家へ泊めてもらったりと、

しかし 家から20km位の本当に近いところに家出です。

 

大都会に憧れる気持ちはありましたが、勇気もなく

そして何より私が何かするとママが父に叱られるからです。

 

仕事もしなくてはいけないので、住み込みで働かせてもらう仕事につきましたが、なんとなく普通の仕事ではなかったので「このままではいけないと」ちょっと都会に行きました。

このころ、大学に通っていた二女・姉のアパートに転がり込んで、飲食店(高校の頃の知人を頼って)で働き始め、そこから新しいスタート。

 

初めての経験ばかりでしたが、それでも楽しく、生活は楽ではありませんでしたが、充実していました。

姉と共同生活をして恐らく姉から母には連絡が言っていたと思います。心配性の母は安心したでしょう。

 

楽しいと思える仕事に就き、パートナーもできたのにDVに苦しめられる

そんな中、知り合いから 新しい事業を始める人がいるからと紹介されて、あるファストフード店のオープニングスタッフマネージャー兼社員教育係としてヘッドハンティングされたのです。

仕事は順調でしたが、もともと姉は小さい時から私にちょっと妬みを持っていたようで、二人での生活もそう長くは続きませんでした。

 

私も1人暮らしをはじめ、順調に楽しい毎日でした。

その後も異業種からのヘッドハンティングで次第に私の経験も豊富になり、仕事の面でも充実した毎日を送りました。

 

そんな中、ある仕事の時に中学の先輩と再会、大人の男性で物静かなひとでした。

あっという間に意気投合した私たちは新しい生活を始めることになったのですが この生活はあっという間に3年足らずで崩れ去りました。

 

彼からのDVで精神的に追い詰められました。

その当時DVという言葉すらなかった時代で、本当の両親だったら相談できたのかもしれません。そしてママにも相談できませんでした。

 

何故ならママはいつも私のすることには否定的でした。

「あなたは○○だから」とか「きっと失敗する」とかやることなすこと否定するのです。認めてくれることはありませんでした。

彼の事もママも叔母さんも反対していたので、余計に相談できず黙って、悩んでいました。

 

彼はお酒を飲むと暴力的になり、友達や同僚などからは慕われていたので、誰かがいる時は物静かで良い人でした。

 

2人きりになると変わるのです。最初は言葉だけでした。

車の中や、自宅。とにかく誰もいないと変わるのです。

 

そして 次第に 夜寝ているときに性的な要求を断ると無理やり行為に及びそして嫌がっていると馬乗りになり首を絞めたりしました。

 

酷い時は毎晩です。

仕事をしていた私が遅く帰ると、焼きもちなのか、余計に酷い暴言、性的暴力、

疲れ果てて、相談もできず、どんどん追い詰められていくのです。逃げたい。

 

こんな時にパパが生きていれば、普通の家庭に生まれていればと恨んでいました。

 

そして耐えきれなくなり また私は家を出たのです。

彼のいないうちに荷物をまとめて逃げました。

 

仕事の関係の方にお世話になり6畳一間の小さなアパートを借りて、細々と、隠れて生活。

 

そんな逃げる生活に反して仕事に没頭してすぐに、大きな仕事を任され充実していましたが、いつ彼に見つかるか、びくびくしながらいました。

 

 

 

美容に興味を持ち、背中を見て美容師免許を取得する

本気で好きになる仕事と出会う…が、養父母と再会してしまう

1年ちょっと過ぎたころでしょうか、

イベント企画の会社に勤めていたこともあり、たまたま地元で開催される大きなフェスティバルのアルバイトに応募しました。

パビリオンのコンパニオンにもあこがれはあったけど、配置になったのは総合的な事務局のサポート。

でもこれが私の今の仕事にも役に立つ、イベントの企画や細かなプロデュースする事の基本を教えてもらいました。

沢山の来場者に細やかなサポートをしたり、イベント会場内の伝達や運営についてのことなど。

この時は毎日楽しかった。

「こういう仕事をずっと続けられたら良いな…」

 

もちろんこの頃は親戚にも、養父母にも、ママにも連絡・所在地不明にしていました。

しかし 運命は思いもかけない事…

イベント会場に養父母が来たのです。それも偶然に私も目の前に…。

 

驚いた養母は「元気で良かった」と…。

その時に私の見た物は痩せて、少し顔色の悪い養母の姿に、後ろから迫る「死神」。

 

そのころ養母は体調を崩していたようで、もともと養父と一緒になって沢山の我慢をしてきて、さらに自分の連れ子の事でも色々言われたようでしたが、文句も言わずにずっと耐えてきていました。

具合が悪くなってもそれを言い出せなかったのだと思います。

それが病気の進行を妨げずに蝕まれていくきっかけになり、いよいよ体調が悪いとなった時には入院。

 

それをきっかけに叔母とママから連絡があり、美容室の跡を継ぐために見習いに入らないかという誘いでした。

叔母さんの美容室から養母の入院している病院は車で10分

なにかあれば直ぐに駆け付けられる。

 

それに私もそろそろ地に足を付けて…と思っていたところでした。

 

でもフェスティバルの仕事が終わり本部の社員から

「うちの会社で、イベントの仕事手伝わないか?」と誘いが…。

 

迷いましたが、養母についている死神が気になり、

美容師になる決断をしたのです。

 

修業生活が始まり、1年ぐらいの時に母が再入院

直ぐに良くなるかと思いましたが、病状は悪くなる一方。

 

透析中に意識不明になり、予断を許さない状況の中、仕事が終わってから病院に行き泊まりこみの毎日が始まりました。

 

数か月間 毎日病院と美容室の往復。

病室で美容師の勉強をしていました。

 

病室の隣に死神らしき人物。

「来るな!」と毎日祈りました。

 

ある時 この日は私が試験の間際でアパートにいると病院から連絡。

 

直ぐに来るようにと。

病室には人口呼吸器で生かされている母がいました。

 

先生は「もう無理です楽にしてあげましょうと」

最後は私が看取りました。

 

父も間に合わず、自主の子供も間に合わず。

母の葬儀、初めて近い人が見の前で火葬の扉の向こうへ行くときにはとても心が痛かった。

 

その後、私は美容師免許を取るために必死で勉強しました。

夢は「本物の美容師になること!」

ただ髪を切って、カラーリングして、パーマをかけて、だけじゃなくて美容師というのは国家試験でかなりの教科を勉強しているのです。

 

それを生かさないでただ美容師になっている人が沢山いるのです。

私は極めてみたかった。

 

だから国家試験の勉強もがむしゃらにやり、勉強会も沢山参加して、県外まで色々勉強に行き、早朝から夜遅くまで勉強していたのです。

 

修業中でお金はなかったので、夜時々バイトをして勉強のためにお金を稼いで、1番で卒業して100点で合格しようと…お店の接客も今までの様なものではだめだと…。

古いやり方ではなく、もっと工夫を使用とか、お客様に喜んでもらうにはとか。

 

でも数年たっても認めてくれない叔母さん。

それどころか「技術は見て覚えるもの」という職人の考えで、何も教えてくれないまま数年経ち、やっと私は自力で美容師の免許を取得。

 

これで認めてもらえるか?

期待しました。

 

理容師の免許を持っていたから、(ママは週末だけ美容室の手伝いに来ていました。)「刈り上げ」を教えてもらいました。

美容師は刈り上げの不得意な人が多いけど、私は失敗しながらもママが教えてくれる刈り上げを一生懸命覚えた。今はこれが役に立っています。

しかし、結い上げも、カットもいつになっても教えてはくれませんでした。

 

別の美容室に仕事の後や休みに 勉強に行き、カットや結い上げを教えてもらい、その他は見て勉強をする日々。

結局、叔母さんは私のことをいつになっても認めてくれませんでした。

 

私の人生をすべて奪う人との出会い

人生を根こそぎ奪っていった人との出会い

そうこうしているうちに 叔母さんが家をたてる計画を始めました。

銀行からの融資が必要。

 

収入は文句ない、でも独身…子供がいない為に融資が下りない。

という事で養父の承諾をもらいに行き、叔母さんの養子になりました。

 

おかしな話し、私は母親というのが3人になった。

「これで幸せな生活が始まる…!」

そう思っていた。

 

美容室のお客様は色々いて女性でも会社の社長さん、企業のトップの男性、昔ちょっとやくざ…

そして時々お客様に誘われて 叔母さんと一緒に食事に誘われて行ったときの事、お店の主人叔母さんを褒めずに私を褒めたのです。

叔母さんは女優さんのように綺麗な人で品があり、私にとってもあこがれの人だったのです。

 

本人も少々自信もあったと思います。

しかし「いや~○○ちゃんの姪っ子は可愛いな~」

とべた褒めしたことでご機嫌ななめになり、それ以来私と一緒に出掛けることが少し嫌になったようです。

 

そして新居建設が始まり、私もワクワクしていた矢先、叔母さんにお付き合いしている人がいることが分かったのです。

 

ヒモの様な男で、仕事も辞めて叔母さんの家に転がり込みパチンコ三昧。

噂によると会社の人に良い”金づるが”見つかった、もうすぐ仕事辞めると話していたことが、知人から伝わってきました。

 

でも、恋は盲目?

男と女の関係はそんな事に聞く耳を持ちません。

 

無実な私が叔母さんからも見限られてしまう

そして何よりショックだった事件が。

 

あるときに叔母さんのお財布からお金がなくなったらしく、2、3度それを「私が売り上げのお金を取ったでしょう?」

叔母さんからそういわれたのです。

 

確かに安い給料で美容師の勉強のお金は足りませんでした。

内緒で夜バイトに行き、講習費などを稼いでいましたが、売り上げを盗むなど、そんなことをする訳がない!

 

今までそんな事なくて、あのヒモ男が同居するようになってからの出来事。

誰を一番に疑うのか??

 

尚且つ私が疑われたことについてママは聞いていましたが、

かばう様子もなく、「謝りなさい」と。

 

希望が無くなりました。

 

その後新居が完成。

ここから通うんだ、どの部屋が私の?

叔母さんからは返事がありませんでした。

 

鍵も渡されず、新居に行くことも拒まれました。

どうして? 私は養子縁組までして建てたのに。

 

数年忘れていた「必要のない自分、生まれてこなければよかった」という思いがよみがえりました。

 

もう頼る人は誰もいない。

 

私は自分の人生を終わりにする計画をたてることにしました。

 

私の人生を救い上げてくれる人との出会い

人生を終わらせる日

1年間死ぬことだけを考えて、死ぬための計画をたてて、1年間そこに向かって進んでいきました。

まずは身の回りの整理。

 

仕事を辞めるために良い従業員から嫌な従業員へ但し、いなくなったら困る存在に

 

そして友達への別れの為に毎日、その日に向かって準備をして…

 

その年の大晦日、美容室の閉店後「今日で辞めます」と先生(叔母さん)に告げた。

何か違うな??ということは気が付いていたようで、「なんで?」とは聞いてきたが、私は答えたくないし、とにかくもう決めた事として、辞めて自宅のアパートに戻った。

 

以前から準備していたロープを持ち、数本のお酒・ワイン・手紙を持って、お世話になった知人の自宅の玄関先にそっと置いて別れを告げた。

 

すぐに行くから!という言葉で救い上げられ、独立開業の道へ

最後の1軒に届けた直後…たまたま知人が帰宅して発見。

直ぐに電話をかけてきました。

 

様子が変な事と涙の止まらない私、私の胸の内を話し、長い電話の後に

「そこで待ちなさい、直ぐに行くから!」

と深夜に追いかけてきた。

 

本当は死ぬのは怖い、でももう私なんか生きていても仕方がない。

叔母さんを一生苦しめてやりたかった。

 

ママの事も恨んでいた。

私の味方になったことは一度もなかった。

 

でも、その知人Sさんとしましょう。

Sさんは私を迎えに来てずっと涙の枯れるまで、付き合ってくれた。

泣き疲れて寝てしまうまで。

 

絶望感から立ち上がるのは大分時間がかかりました。

しかしSさんの温かく、優しい包み込むような心で、次第に私の心は落ち着き、もうあの人たちのところへは帰らないと決め、Sさんの経営する会社で働き始めました。

 

会社の売上はあっという間に上がり、実績を出していきました。

今までとは全く違う職業でしたが、もともとアウトドアで何でもトライする性格でしたから、直ぐに楽しさを覚えて、充実した仕事でした。

 

そんな中、美容学校の友達がお店をやらないかと連絡が、Sさんに相談するとやってみたら? という助言。

 

資金もないので、大規模改装はせず居抜きで開業することに。

休みの日は継続してSさんの会社の手伝い、厳しい経営でしたが、何とか営業を続けていました。

 

父との再会。それでも変わらない父

そこへ、父から連絡が、数年ぶりで帰りました。

すると自主の娘には見捨てられてひとりのはずが、何処の女性の物かタンスの中には下着やら、色々入っているのです。

どうやら海外の女性が時々泊りに行くらしく、その度にお金を渡していたようで、このままではどんな事件に発展するかわからないと思い、父の住む家に頻繁に行くようになりました。

 

そしてここから5年毎月10万、20万と父の面倒を見ていたのです。

友人は昔辛い目に遭ったのに そんなに面倒見なくても。

 

そう言われましたが、この時もママが悪く言われることを気にかけていたのです。

あの時かばってくれなかったのに。

 

しかしそんなに面倒を見てもいっこうに有難味を感じていなかったようで、ある時に家の改装資金を持って行くことが少し遅れてしまい、仕事が終わって急いで夜届けたら、ご機嫌ななめ、持って行ったお金を「こんな金いらない」と投げ捨てたのです。

 

どんな想いで作って来たのか、働いて働いて、持って行ったのに。

 

それ以降私は父の家に行くことはありませんでした。

 

その後、私はSさんの会社も辞めて,ヘッドハンティングのあった会社の仕事をしながら 美容室の仕事と相変わらず忙しい生活に戻りました。

 

きっと誰かが必要としてくれる。そんな日が来るまで私は寄り添う

新しい道へ自分のやりたい方向へ行く決意

色々ありましたが、一度は辞めた美容の仕事と、今までの経験を生かして自分で起業しました。

儲かってはいませんが、屋根のある家に住み、食べることにも困らず、なんとか生活しています。

 

ママは数年前に亡くなりました。

叔母さんとは久しぶりにママの葬儀で会いましたが、目も合わせないでいました。

 

もう振り回されるのは嫌です。

といいながらママの再婚相手の面倒は少しみています。

 

仕事をしながら、社会貢献ができないか?

色々考えました。

 

社会貢献というと聞こえはいいですが、誰かに必要としてほしい。という自分の寂しさを紛らわすための自己満足かもしれません。

死にたい願望が出てこない為に。

 

人には言えないくらい辛い経験があったからこそ人の痛みが痛いほど分かる

ボランティアで災害復興の手伝い、海外の子供たちへの支援。

仕事でも私の経験は役に立つこともあります。今はカウンセラーやコーチング、人の悩みを聞いて職業としている時代になりましたが、私たちの頃はそんな職業ありませんでした。

 

ネグレストなんて言葉もなかったのです。

いじめられても、ネグレストにあっても、DV受けても、パワハラされても、リストカットしても

誰にも相談できなかったのです。

 

しかし仕事の中でそんな悩みを抱えている人が相談に来ることがあります。

私はその人たちの気持ちが痛いほどよくわかるのです。

だから寄り添って、話を聞くことができます。

 

人それぞれ形の違いはあります。悩みも様々です。

でも受けて来たことの心の痛み・辛さは一緒です。

 

寄り添う事…大切な事です。

解決するまでは出来ないかもしれません。

 

でも誰かがきっと必要としてくれている。

何処かで…いつか…そんな人に会える時が来るのです。

私は最後に死のうと思った33歳、その後は死んだ後の人生と思って生きています。

 

親がいて、一緒に暮らす。そんな当たり前の大切さを伝えたい

死にたいという悩みを持っている人にこそ、ちょっと待ちなさいと伝えたい

私の経験をこのブログから発信して、同じような悩みを抱えている人、現在体験されている人、昔体験した人、子供にそんなことをしてしまって悩んでる人…

死にたいという声に付きまとわれている人、いじめられている人、親と生活したことがない人、

沢山の人に このブログを読んでいただき一歩踏み出したい、悩みから解放されたいと思っているそんな方々と寄り添い、コミュニティーを作れたらと考えています。

 

経験した辛い事は消えることはありません。

つい思い出してしまう事もあります。

 

そんな時にふと私のブログを思い出してください。

辛い思い出がいい経験と思えるようになるように。

 

話しがしたい時は聞いてあげます。

あなたの心が落ち着くまで。

 

そして振り返ることがあっても、未来が新しい何か、皆さんの心に新しい光を与えてくれると思います。